カート・ヴォネガット氏追悼

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Nice!

カート・ヴォネガット氏が亡くなったとのこと。「夢見るかえる」経由で「暗いニュースリンク」を見に行ったら追悼記事が出ていた。合掌。たぶんabsinth先生が合掌しておられた米国医療の追悼記事にも合掌するべきなんだろうけれどもね。大学時代に憑かれたように彼の著書を読んだ。彼の著書にひんぱんに述べられる、「天の誰かさんは私たちにこの世界を気に入ってもらおうとしている」という彼の言葉には、臨床でもずいぶん励まされてきたような気がする。米国に彼のような作家が登場するということ自体、彼のこの言葉の裏付けであるような気もする。もうひとつ彼に与えられたお題。「『冒涜の言葉を使わないのは』と、いつも答えることにしていた。『おまえが私の話を理解するかどうかに、おまえの命と、おまえの周囲の連中の命がかかっているかもしれないからだ。OK?OK?』」(「ホーカス・ポーカス」1990年)。彼の小説に登場する職業軍人が、部下に卑語を使わない理由を聞かれて答える台詞である。多少なりとも私がNICUで看護師や同僚に対して辛辣さを減じているとすれば、彼らはヴォネガット氏に多いに感謝するべきである。君たちが私の話を理解するかどうかに、あるいは私に遅滞なく話ができるかどうかに、君たちの周囲の連中の命がかかっているかもしれないからだ。OK?OK?。不幸にして減じる度合いが足りないとすれば(たぶん足りないだろうね)、それはヴォネガット氏が書いた本が決してlifehackや自己啓発本の類じゃなかったためであるということで、彼の筆力が足りないと言うことではない。決して。彼がエッセイで、ときどき、夜更けに電話番号案内に電話して昔の知人の番号を聞いてみると述べている。いや決してlifehacksではないですよ。酔っぱらってつい、ということらしいです。いまどきNTTにそんな問い合わせをしてまともに情報が得られる道理はないけれども(プライベートな電話番号を電話帳に載せてる人っていまどきどれほど居るんだろう;まして携帯の時代だしね)、先だって、たぶん彼と同じような気分で、旧知の人の名前をGoogle検索してみたら、お陰で高校の同窓にも連絡が取れたりして、随分と実りの多いことになった。ヴォネガット氏の場合は、そんな名前は当地の電話帳にはありませんと言われて沙汰止みとなることが多かったらしいが。ヴォネガット氏はGoogleについてどういうご見解をお持ちだろう。「もう、ひとりじゃない」とか仰るんだろうか。伺ってみたくはある。追悼記事で知った公式サイトにはもはやなにも語られていない。そういうものだ。  そういうものだ。