獄窓記
山本 譲司 / / ポプラ社
ISBN : 459107935X
本書において、著者が描くところの著者自身は、入獄前の政治家時代には自分の行為の犯罪性にうすうす気づいていても目をつぶる愚か者であった。入獄後にはあらためて、活動の重点を福祉にも置いていた国会議員でありながら障害者福祉の実態を知らなかったという愚かさの自覚が付け加わる。その自分が逮捕から実刑判決におよぶ入獄前の体験や、獄中生活の体験によって覚醒していく。獄中では、自らの受刑者としての体験に加え、障害を持った受刑者を糞尿にまみれて世話した体験も加わって、壮絶としか言いようのない体験をしている。その体験を経て再生した自分を語る物語である。
あくまでもこれは彼が彼自身について語った物語である。獄中生活を終えた自分自身を立て直すために、彼にはこの物語を語る必要があった。自身を正当化するという目的をもった行動ではなく、自身を解釈するためである。まずは自分自身に対して現時点での自分の立ち位置をはっきりさせるために、彼はこの物語を彼自身に語り聞かせる必要があった。それがはっきりしないと彼は先に進めない。先に進めず獄中生活を終えたばかりのまま立ちつくしていては彼は救済されない。
そう言う意味で、本書は優れた「ナラティブ・アプローチ」の症例報告である。
冷めた賢しらな目で本書を読めば、この物語の主人公はいささかイノセントに過ぎるという印象を受けるかもしれない。「客観的に見たら」どうだったのよという突っ込みは本書のどの部分にも可能である。しかしナラティブ・アプローチにおいて「客観性」などという概念は従来の特権的な地位を持たない。客観的じゃないと言えば攻撃として即有効だと信じ込むのはナイーブに過ぎる。
そういう前提を置いてもなお、本書で著者が報告する、獄中の障害者達の境遇は衝撃的であった。獄中がもっとも生きやすいなどと明言されては、障害児の父としては暗澹とするばかりだ。まだ本邦の障害者福祉はそのような状況なのか。