のび太小学校は学区内に聾学校があり、
聾学校の生徒と学年同士で交流がある。
遠足や修学旅行など、可能な限り、行事をともに行う。
のび太と同じ3年生にもふたり、聾学校の生徒がいて、
何かしら交流があり、
一緒に遊んだりもしている。
「聾学校の子はすごいんだよ!
手話もするし、僕たちと話すときは口の動きを見て、
何を言っているかわかるんだって!
ちょっと聞き取りづらいけど、ちゃんと僕、
何を言ってるかわかるよ!
一生懸命、お話してくれるんだもん!」
始めのうちこそ、感心していろいろ教えてくれたけど、
最近では、聾学校の子たちの存在は、
特別なものではなく、当たり前らしく、
「今日の行事、聾学校の子も参加したの?」と、たずねても
「うん。もちろん。」
当たり前だよ!っていう感じなのだ。
ごく自然なのだ。
そこに、ハンデを抱えている人がいることに、
違和感も疑問も持たない。
子供たちの順応性は素晴らしい。
私が小学生の時、障害のある人なんて、
町ですら見かけることもなかったし、
特殊学級もあったことは覚えているけど、
教室がどこにあるのか、どんな子がいるのかすら知らなかった。
当時、障害のある子や親はどんな思いでいたのか・・・
考えると切なくてたまらなくなる。
彼らの辛さや苦しさのおかげで、今、のび太たちは、
存在を認められつつあるのだ。
「あのね、4年生のニコニコ学級(特学・仮名)のGくん、
養護学校っていうところに転校するんだって。
引越しはしないけど、養護学校に行くんだって。
どうしてかな?」
養護学校は病気の子が治療や入院しながら通う養護学校と、
自閉症など知的に遅れのある子たちの養護学校と近辺にふたつある。
どうやら、後者の方らしい。
「体が病気で学校に通えない子の学校は
近くにあるでしょ?
でも、Gくんの転校するのは、生まれつき脳に障害がある子が
通う、学校の方だね。
脳に障害があって、みんなと同じように勉強するのがむずかしいとか、
お話の意味がわからなかったり、自分もうまくお話できなかったり、
そういう子のための学校なんだよ」
「ふ〜ん・・・。でもね、Gくんってすごいんだよ。
絵のコンクールで○○県で一番いい賞をもらったんだよ。
やっぱり、お母さんが言ってた『神様からの贈り物』って
本当だね。」
すべて一番じゃないと気がすまない、
身の程知らずなまでに、できないことを悔しがるのび太に、
何度も何度も、言い聞かせていたことば。
「生まれるとき、誰でも『神様からの贈り物』をもらって
生まれて来るんだよ。
その代わり、誰にでも苦手なものもあるんだよ。
スポーツが得意な贈り物、絵が上手、歌が上手・・・
のび太は走るのはちょっぴり遅いけど、
算数や漢字が得意で、おまけに折り紙やあやとりも得意なんて、
いっぱい贈り物、もらったんだね〜」
私は無宗教だけど、こんなときは神頼みなのだ。
どんなに頑張っても徒競走で1位にはなれない、
どうしてもプールで顔すら水につけられなかったとき、
自暴自棄ののび太に何度も言い聞かせた。
「へ〜!すごいね〜
本当に『神様からの贈り物』だね。」
「Gくん、脳に障害があるんだ〜・・・
脳って見えないから、ぜんぜん知らなかったよ・・・」
「そうだね。目に見えることだけで
判断しちゃダメだ、ってことだよ。
優しさとか、勇気とか、目に見えないけど
とっても大切だよね。」
・・・・・ものすごく、心臓バクバク状態で会話した。
のび太に告知するタイミングなのかもしれない・・・
と、思いつつ会話していたけど、
のび太はまったく、自分に疑問をもっていないんだ・・・
ということがわかった。
のび太は障害のある人に対して自然体だ。
私の話していることもちゃんと、理解してくれているようだ。
もし、自分にも障害がある、とわかったときも、
障害のある人を自分に置き換えて、今日の会話みたいに
感じて話せるだろうか。
「脳って見えないのに、
どうして脳に障害があるってわかるんだろう?」
「!!!えっと〜・・・それは〜
お医者さんなら、ちゃんとわかるんだよ!うん!!」
母、しどろもどろ・・・・・
のび太より、ワタシの方が精神的には未熟であるようだ・・・
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