大相撲の醜聞が続き、週刊朝日の前号で内舘牧子がここぞとばかりに朝青龍を攻撃していた。
朝青龍がモンゴルでサッカーをしたのが問題視された折、彼女は朝青龍を即座にクビにしろと主張したと自慢げに書いてあった。それはもう朝青龍を横綱にする時点で彼女は反対だったのだから、それ見たことかと言いたいのは分からんでもない。コドモか?とこどものおいしゃさんである私は突っ込んでみたいところだが、こどもですと称して外来に来られても困るからそれは言うまい。
しかしモンゴルの温泉に短期間浸かっただけでうつ病寸前が治るのかと揶揄してあったのは彼女の見識を疑う。短い休暇の帰省を心の支えにしている私には、モンゴルの草原に立ったドルゴルスレン・ダグワドルジ青年の心中が思いやられるばかりなのだが。彼女には故郷というものが無いのだろうか。ふるさとの山に向かひて言ふことなし、という感慨を知らないのだろうか。
おそらく朝青龍という人も、風聞から察するに友達付き合いはしにくい人なんだろうとは思う。あれだけ日本語を流暢に喋るのだから決して頭の悪い青年ではないのだろうとは思うが、基本的な乗りは体育会系なのだろうし、私は体育会系の人はどうも苦手だ。しかし身近に付き合うのは願い下げだが尊敬はするというのはありだと思う。敬して遠ざけるというのは昔からよく行われてきたことだ。
横綱は強いために横綱なのだという単純な事実が軽視されすぎてはいないだろうか。その強さがあまりに強すぎて理不尽の域に達し、あの強さは稽古で到達できるような人知の及ぶところを越えて神から授かったとしか考えられないと、畏敬の念を抱かざるをえないほどに強いのが横綱なのではないか。
その意味において朝青龍ほど横綱の本質を突いた横綱は居るまいと思う。彼ほどに、その人気の根拠をただ純粋に強いという点に負っている横綱が今まであっただろうか。なぜこんな憎々しい奴がこれほど強いのだという慨嘆を日本人にこれほど味わわせた横綱がいままであっただろうか。彼が体現する強さこそ、ほんらい強さとは理不尽なものであるということを凡俗に思い知らせ、否応なく畏敬の念を抱かせる、横綱の強さなのではないかと思う。
自分のコントロールが及ばないものに対して畏敬の念を抱くというのは、日本の伝統的な道徳において、悪徳とされるものであっただろうか。あるいは、自分のコントロールがおよばないものを偏執的に攻撃し潰そうとするのは、はたして日本の伝統に照らして美徳とされる態度であっただろうか。
その畏敬の念を大事にしたからこそ、日本人は相撲を国技と認めてきたのではないか。言い方を変えれば、その畏敬の念を根拠にしてこそ、相撲は日本の国技を自称してこれたのではないか。その強さを体現する横綱が、商業主義に協力しないとかお年寄りの女性脚本家の趣味に合わないとかの理由で排斥されてよいのか。それこそまさに国技を侮辱するということではないのか。
横綱が辞めさせられるのは弱くなったときのみなのだ。弱くなった横綱はもはや神に嘉されなくなったものとして、定義的に横綱たり得ないのだ。それは身体を壊したとか年齢が行ったとか、いかに同情すべき理由であれ。横綱に与えられる強さが理不尽な神の与える強さであるとするなら、その強さを奪うのもまた神の理不尽さであろう。人間の小賢しい選り好みは、横綱を辞めさせる理由にはならない。
弱くなってなお横綱にしがみつく力士の行く末は哀れなものだ。朝青龍も弱くなったらとたんに引退するべきである。それは私が朝青龍の身方であるゆえにそう言うのである。あるいは朝青龍の強さを畏敬するゆえにそう言うのである。横綱としての朝青龍を尊敬するからそう言うのである。逆にまだ強いうちは、朝青龍が横綱であり続けることを断固支持する。