幼稚園帰宅後いつも、家の前の砂場で遊びます。
4時頃に夕刊の新聞配達屋が毎日そこを通ります。
息子はこの新聞屋さんに毎日必ず「こんにちは!」と大きな声で言います。
しかし新聞屋さんは息子に挨拶を返してくれた事が一度も無いのです。こちらを少しも見ないで通り過ぎて行きます。
おいおい、無視かよっ!・・と私はいつも思っていたのですが。。
でも息子としては、「同じ時間に同じ相手に同じように挨拶をする」という行動を毎日繰り返すことに意義があるようで、相手の反応はどうでもいいらしい。
けど私は、「この至近距離で聞こえてないわけ無いのに!」といつもイラっとしていました。
この話を夫にしました。
すると夫は、「その人、耳が聞こえないんじゃない?」と。
え・・
私はそんなこと全く考えていませんでした。
だって見た目には普通の人だから・・
こちらをチラっと見ることすらせず、一度も挨拶を返してくれないというこの状況・・聴覚障害の可能性も?
いや、本当のことは分からないので、他人を勝手に障害者呼ばわりしてはいけないですね。単に愛想悪いだけかもしれないし。
でも私は障害の可能性を微塵も考えず、「聞こえてないわけ無い」と決め付けていました。
私は自分の障害のことを、「見えない障害だから辛い。“できないわけない”と決め付けられることが辛い。もっと理解して欲しい」と散々訴えてきたのに、他人のことになるとそういう事を全く考慮出来ないとは・・とても自分勝手だなあと、反省。
しかしどうすれば良いのでしょう。
人と接する時は、相手が「見えない障害」を持っている可能性を常に考慮しなけれならないのだろうか。
それは何だか違うような気がするし。。
ならば障害者自身が「見えない障害」を「見える障害」にしてみるのはどうだろう。
「私は耳が不自由です」と大きく書かれたカードを首から提げている人を実際に見たことが何度かあります。
では発達障害者の場合は?アスペルガーの場合は?
「私はアスペルガーです」と書いてあったとしたら・・
アスペルガーって何? ・・という事になるかもしれない。
どのように書けば分かってもらえる?
「私は社会性に欠けています」・・とか?
いや、そんなカードを首から提げていたら怪しまれてしまう。
聴覚障害なら「耳が不自由」という説明で通じるのに、発達障害は説明がとても難しい。そういう意味では発達障害の方が苦労しますよね。
あくまで説明が難しいという点でのことで、障害自体の重さは比較できるものではないですが。。