単行本だけを読んでいる方には非常に待ち遠しかったであろう、聲の形のコミック最新刊です。聲の形 第6巻大今良時講談社 少年マガジンKCこの作品は、小学校時代、耳が聞こえないがためにいじめを受けた少女と、そのいじめを主導したことがきっかけで自分自身もいじめられる側に転落した少年が、高校生になって再会し、それぞれが失った過去を取り戻そうともがく物語です。↑私もさっそく買ってきました。すでに作者サイドから、全7巻、62話で完結することが宣言されており、連載もあと1か月あまりで終了する予定です。第6巻には第43話から第52話までの全10話が収録されています。単行本をずっと買われている方はすぐに気づくと思いますが、第6巻、表紙がこれまでと違うんですよね。 聲の形 第1巻・第2巻・第3巻・第4巻・第5巻これまで1巻から5巻まで、ずっと表紙は将也と硝子のツーショットだったのですが、第6巻の表紙には硝子しかいません。そして、これまでずっと表紙で微笑んでいた硝子ですが、第6巻では暗く沈んだ表情をしています。当然ですが、この表紙の変化は、ストーリーと連動しています。(注:ここからネタバレになります)第6巻では、将也は冒頭の第43話で物語の表舞台から「退場」します。そして、将也がいない世界のなかで、主要メンバーそれぞれについて、将也との出会いが自信の人生や価値観にどのような影響を与えたかが描かれていきます。そして、その「各メンバーの振り返り」がすべて終わったあと、ついに将也が舞台に戻ってくる「予兆」が描かれて、第6巻は終わります。このような構成ですから、第6巻では、第5巻までとはまったく異なる描写方法が採用されることになります。第5巻まで、「聲の形」は、将也または結絃の視点からのみ描かれてきました。読者にとって最大の謎であり、知りたいことでもある「硝子の気持ち、考え方」については、直接語らせるのではなく、妹である結絃に代弁させる形で物語が進んできたわけです。でも、その「結絃視点=硝子視点を代弁できる」という前提は、第5巻のラスト、硝子の自殺を結絃がまったく予期できなかったことで、ただの幻想に過ぎなかったことが冷酷に示されました。第6巻は(将也が退場する第43話を除くと)、そんな「硝子の気持ちを代弁する」という特権的地位を剥奪された「結絃視点」から始まります。いくつかの事件がおき、結絃は、代弁どころか硝子のことをまったく理解できてすらいなかったことを思い知らされ、「硝子のために命を消耗する」というかつての宣言を有言実行した将也に思いをはせます。そのあと、永束、佐原、川井、真柴、植野にもそれぞれ初めて「視点」が与えられ、小学校時代から現在にいたるまでのそれぞれの人生と、将也から受けた影響が語られます。これを読むと、継続的ないじめを受けたことで自己肯定感が損なわれ、周囲を断絶して孤立を貫いてきた将也ですが、実際には周囲にさまざまな影響を与えていたことに改めて気づかされます。将也は、決して自分で思っているほどダメな奴ではなかったのです。そのことが最大限に示されるのが、「植野視点回」の後に続く、第6巻のクライマックスともいえる「硝子視点回」です。第6巻にしてついに、「硝子視点」が解禁されるのです。硝子視点回は2話にわたって展開されますが、その前半となる第51話では、「聴覚障害者から見た『世界』」をまんがとして描くために、非常に実験的な手法がとられています。(こちらについてはあえて詳しく書かず、読んでからのお楽しみということにしておきます)そしてもう1点、当ブログとしては絶対に見逃せない、非常に重要なポイントが出てきます。(このレビューは、実はここからが本番です)第51話では、硝子が夢見てきた「理想の世界」が描かれるのですが、その世界とは「もし私に障害がなかったら、みんなと普通に過ごせてみんな幸せだったのに」という世界でした。そして、小学校時代の硝子は、「障害があっても、必死に頑張ったらそんな理想の世界に近いものが手に入るんじゃないか」と信じて、必死にみんなの輪の中に入っていこうとしましたが、願いかなわずいじめを受けてしまいました。その結果、硝子は「夢の世界(=障害がなければ手に入ったはずの幸せな世界)の実現に近づくこと」を「諦めた」わけです。そんな硝子に、高校になって会いに来た将也は、その「諦めた」ことの象徴だった筆談ノートを「忘れ物」と言って持ってきてくれました。その後、将也とのつながりのなかで復活してきた「小学校のころの関係」は、硝子にとっては「かつての『夢』の実現への再挑戦」でもあったと思います。でも、それは5巻の「橋崩壊事件」でふたたび壊れてしまい、硝子はふたたび「夢が失われた」と感じて「諦め」て、自殺を決行してしまったわけです。でも、将也に命を助けられ、代わりに将也が大ケガをし、映画の再開に奮闘して結果を出した硝子は気づきます。「私に障害がなかったら」という、決して手に入らない「夢」よりも、もっと大切なものを自分は現実の世界で手に入れていたのだ、ということに。障害のある自分を障害ごと受け入れ、自分のことを大切だと言って行動でも示してくれて、これからもずっと「一緒に」生きていきたいと言ってくれた、かけがえのないパートナーが目の前にいたことに。そして、自分が犯してしまった自殺という行為とその結果としての将也の大ケガは、目の前にある本当に大切なものに気づくことができず、それを自分から捨てようとし、傷つけてしまったという愚かな過ちであったことに。ここに、障害当事者である硝子の劇的な価値観の変化が描かれています。これまでの硝子、特に小学校時代の硝子は、「自分に障害がないというのが夢であり理想の世界だ」という価値観を軸に生きてきました。これは「障害の否定」ですが、実際には障害は消えてなくならないことから、この考えを突き詰めると、必ず「自分自身の否定」につながります。硝子が最終的に自殺という手段を選ばざるを得ないところに追い込まれたのは、「障害を否定」する(せざるを得ない)価値観を軸に生きていたことと無関係ではありません。そして、厳しいことをいうなら、その背景には西宮母の教育方針、価値観があることは否定できないでしょう。それに対して、橋に向かう硝子が気づいたことは、「これまで夢見てきた、自分に障害がないという理想の世界」よりも、「自分に障害がある現実の世界のなかに生まれたリアルな関係性」のほうが、自分にとってはるかに重要でかけがえのないものになっているということでした。その「気づき」に到達したことで、硝子は障害を含めたありのままの自分を認め、受け入れる心の準備が、18年の人生のなかで初めてできたのだ、と考えられます。でも、硝子はその「かけがえのない大切なもの」を、他ならない自分自身が壊してしまったことにも、同時に気づきます。その「罪」の重さと、大切なものを失ってしまうかもしれないという危機感、失いたくないという切実な想い、それらが集まっていてもたってもいられなくなり、硝子は深夜の「橋」に向かったのです。その「橋」は、「忘れ物」を届けに来てくれた将也と毎週火曜日に会う場所でした。でも、将也が本当に届けにきてくれた「忘れ物」とは、小学生の頃に追い求めていた「夢」にとどまらず、硝子が物心がつくはるか昔に置き忘れてきたもの---現実を、障害を含めたありのままの自分自身を「好きだ」と無条件に受け入れ、前向きに人生を歩いていく、そんな気持ち---だったのだということになります。第6巻のラストは、そんな硝子の「静寂のなかの絶叫」に対して、前向きな期待を感じさせる場面で終わります。残り単行本1巻分(10話)、作者の当初構想通りの内容で引き延ばしもなくエンディングを迎えるであろう本作は、第6巻にきて、「障害当事者自身の障害受容」という、極めて重くて難しいテーマにまで踏み込んでくる非常に意欲的な作品になってきました。第5巻の激動の展開と比べると、第6巻は淡々と各登場人物のエピソードを拾っていく静かな巻に見えますが、実はこれまでずっと「何を考えているのかわからない」という描かれ方をしてきた硝子について、障害受容という大きな発達課題の達成が描かれた、そういう意味ではやはり「激動」の巻である、私はそう思います。出会ってよかった、心からそう思える本は、一生の間にもそうはないと思いますが、私にとってこの「聲の形」というまんが作品は、間違いなくその1つになってきました。いい作品です。ぜひご一読を。