いただくコメントで、時々、「まっぷーさんは息子さんの障害を全て 認めて受け入れていて素晴らしいです」とか「私は未だに子供の障害を受け入れられません」と言われるのですが・・・「障害を受け入れる」ということがどういうことなのか、そして、何故、私が息子の障害を受け入れているように思われるのか正直言って解らないのです。私自身、「私は息子の障害を受け入れている」と思ったことはないし、かといって、「私は息子の障害を受け入れられない」とも思っていません。何しろ、自分自身が息子と同じ障害を抱えているので上記のようなコメントを下さる多数派のお母さん方とは感じ方も受け止め方も違うのかもしれませんが。ただ、とても苦しんでご自分を責めて検索でこのブログにたどり着く方が多いことにとても驚いています。私は専門家でもないし偉そうなことは言えませんが単に発達障害を持つ息子がいて、息子の障害を知ることで自分も発達障害と診断されたものとして、ここに残しておきたい言葉を記しておきます。何故、私が「息子の障害を受け入れているように見られるか」考えてみたのですが・・・多分、私にとって息子は一人っ子であることと、自分が否定され続けて育てられた思いがあるのでその反動が大きいのではないかと思います。そもそも「障害を受け入れる」とはどういうことか、「受け入れている」と「受け入れられない」の違い(境目?)はどこにあるのか?何を持って「私は受け入れている」と言えるのか、受け入れていればそれでいいのか、というか障害は受け入れなければいけないものなのか、答えがあるのであれば教えて欲しいくらいです。例えば?「私は息子の発達障害の症状の『こだわり』が どうしても許せない、こういうところが受け入れられない」ということと、?「私の息子は発達障害ではないけれど 『こだわり』が多くてメンドクサイの~」という話。?も?も『こだわり』の内容は同じだとしたら違いは「発達障害」であるか否かの違い。つまりは、発達障害ゆえの症状を受け入れられないわけではなく「発達障害」ということが受け入れられないということ。名前がいけないのだろうか?「障害」なんて付いてるからどこかで嫌悪感を抱くのか?だとしたら「少数派発達」とか「個性的発達」とか言えば受け入れられるのかな?(なんて・・・笑・・・余談でした)そもそも「発達障害」というもの自体は本人にとって何も悪影響はないのだ。問題は周囲の無理解や無理に多数派の枠に押し込めようとすることによる不適応や自己否定感の増長によっての二次障害が「発達障害」の危険な部分なのだ。こだわりにもパニックにも全て理由がある。「障害」だからといって理由もなしに不可解な行動はしないのだ。そういう根本的な部分を見つめてあげて欲しい。発達障害者を良く育てるのも二次障害を引き起こすほど落とし入れるのも全て周囲の環境次第と言うことになるのか。そして、はっきり言えば「発達障害」というものは風邪が治るように良くなる事は絶対に無いと言うこと。どんなに祈っても世界中の名医を集めたとしても今のところ、発達障害は完治することは無い、ということを理解してください。いろんな「治療法」とか「○○で完治しました」などという本やサイトが出回っていますがそれは完治ではなく、適応力が付いた、慣れてきた、パニックを回避できるようになった、先の見通しがわかってきたということだけです。間違った情報や弱みに付け込んだ商法や宗教に騙されないでください。穏やかに社会生活を送れるようになるためにはまずは家族が本人の困り感を理解し、基本的な社会常識やマナー、ルールを教えつつ、こだわりやパニックの原因を知ることが第一だと思います。つまり、「受け入れる」とか「受け入れられない」とかゴチャゴチャ悩むよりも今、目の前の我が子をしっかり理解して欲しい。そして、自分の思い込んでいる「理想の我が子像」をぶち壊してください。そして、どんなにパニクってもどんなに学校や世間が子供を否定しても「お父さんとお母さんはあなたが大好きだよ」と、「あなたはそのままでいいんだよ」と、抱きしめてあげてください。あなたと同じ発達障害の息子を持つ母であり、否定されて育った子供だった、私からのお願いです。